自らの栄光をかなぐり捨ててでも信念を貫く姿勢に感動。(アンビリバボー1月26日放送分の概要と感想)

peternoman

ピーター・ノーマン。

彼はオーストラリアの無名の陸上選手だったが、今から49年前(1968年10月)メキシコオリンピック200メートル走で二位に。銀メダルを獲得。一躍、地元オーストラリアで有名人となる。

しかし、彼が表彰台に立った時に、一位と三位の黒人選手(トミー・スミス、ジョン・カーロス)とともに行った行為がそれからの人生を大きく狂わせることに・・・

当時、黒人選手らにとってメキシコオリンピックは特別なオリンピックだった。

アメリカ合衆国においては1964年にキング牧師らの働きにより法的には人種差別はなくなったが、実際の生活のなかでは相変わらず酷い差別が続いていた。

そのような中での「キング牧師暗殺事件」

多くの黒人選手はメキシコオリンピックのボイコットを考えたが、あえて、オリンピックに出場して表彰台で人種差別への抗議を世界中に表明しようとする選手たちもいた。

ピーター・ノーマン自身は白人で抗議活動に参加する必然性はなかったが、敬虔なクリスチャンの家庭で育てられた彼は人種差別を強く拒む信念を父から受け継いでおり、黒人選手とともに抗議を表明する。

彼らの行為は後に「ブラック・パワー・サリュート」と呼ばれ、人権運動のシンボルとなるが、オリンピックにおいては、いかなる種類のデモンストレーションも認められない。

ジョンとトミーは閉会式にでることが許されなかったばかりか、オリンピックから永久追放される。

それだけでなく、アメリカに戻ると解雇され貧困にあえぐことに。

一方、ピーター・ノーマンはオリンピック出場権を剥奪されることはなかったものの、人種差別の根深い、地元オーストラリアでは多くの迫害を受ける。

新聞等のメディアで彼の行為が叩かれ、脅迫の手紙など嫌がらせが続く。それが落ち着いたと思ったら、周囲の人々から完全に無視をされる生活が続く。夫婦関係も破綻し、離婚。

ピーターはミュンヘンオリンピックを目指し努力し、出場のための実力と資格を得るも、オーストラリアは自国の陸上選手を派遣しないとの決定。それを受けてピーターは引退へすることになる。30歳のときだった。

彼の偉業はまるでなかったように扱われ、実際十数年後には誰も彼のことを覚えていなかった。ピーターの名誉は回復することなく終わるかに思えた。

しかし、メキシコオリンピックから33年が過ぎた時、映像作家マット・ノーマンによって、ピーターのオリンピックので行為が映画化されることになり、撮影がスタートする。

マットは子供のころ、周囲の誰も元オリンピックのメダリストだとは知らない伯父ピーターに、本当にメダリストなのかと疑いを持ったところから「ブラック・パワー・サリュート」の話を聞き、心密かにこの事実を多くの人に知ってほしいと思っていたのだ。

しかし、この映画を完成させることは並大抵のことではなかった。

無名の人物のドキュメンタリー映画に全く興味をもたない制作会社を説得したり、2億円の費用を集めたりと(オリンピックの映像を使うのにも多額の費用が必要らしい)完成までにはかなりの時間を要した。

そのためピーターは映画の完成をその目で見ることなく2006年10月3日に天国へと旅立つ。撮影開始から4年後。64歳だった。

映画は2008年6月に完成し「サリュート」とのタイトルで公開され、内外8つの映画賞を取る。 

2012年8月12日、オーストラリア議会はピーターに対して正式に謝罪。シドニーの小学校では教育の一環として「サリュート」を見せているという。

私はこれを見て、正しいことをして、損をすることがある。しかし、それでも正しいことをしたい。不器用な生き方かもしれないけど、死ぬ時に後悔しない生き方をしたい。もしかすると50年、100年後に信念が継承されることもある。たとえそうでなかったとしても、勇気と信念を貫く。そう決心した。

ただ、それ以前に

お前に信念なんてあるのか?と問われたら、

絶句する以外ないのだが・・・

まず、そこから人生を見直したい。

それはともかく

体育教師と精肉店での仕事を掛け持ちしていたピーターが、まだ子供だったマットに言った言葉が一番心に残った。

「私は満たされている」

追伸

アンビリーバボーで、いつもバナナマンの日村がいる位置に関根勤さんがいた。日村は欠席。どうしたのだろう。気になる。

ゲスト:渡辺沙織、岩崎恭子

アメリカ黒人とキリスト教 ― 葛藤の歴史とスピリチュアリティの諸相

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