自分を打ちたたいて従わることができるようになりたいものだ。


いくつかの座右の銘の中でも、特に自分に必要なのは次の言葉だと常々思っている。

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に述べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(コリント人への手紙 第一 9章27節)

これは使徒パウロがコリント(ギリシャ)の教会に宛てた手紙の中の一節だ。

私は他人にも甘いが自分にも甘い。笑

自分のからだを打ちたたいて従わせる」というパウロの精神に憧憬の念は覚えるが、それには程遠い人間だ。

しかし、だからこそ、この言葉を常に心の片隅に置いておく必要があると思っている。

自分にはそれは無理と思ってしまうと、私はどこまでも怠けてしまう。

HSPゆえに「疲れやすい」という点を差し引いても、ちょっと怠けすぎだ。

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気分を上げるためにあえて不快なことをする

つい最近「気分」の大切さについての「気づき」を得、「気分良く」毎日を過ごせるよう工夫をしている。

そのおかげか、日々の生活がだいぶ楽にはなってきた。

気分を上げるというと、何か自分にとって心地よいことをして、たとえば好きな音楽を聞いて「気分」を上げる、というようなことをまっさきに考える。

しかし、一時的には自分にとって不快に思えることでも、それをした結果「気分」が上がることもある。

たとえば、掃除なんてしたくないなあ、面倒だなあ、と思っていても、いざ、思い腰を上げて掃除をはじめたら、最初は気分が悪くても、綺麗になることで、次第に気分が良くなってくる。

また、部屋が片付いたことの爽快感だけでなく、セルフコントロールが出来たことから来るところの自敬の念も気分を良くするのに貢献する。

そういった意味で「気分」がのらないときでも「自分のからだを打ちたたいて」自分を従わせることは大切。

それもまた「気分」をコントロールするための大事な手法だと思う。

特に私などは気分がのるまで何もしない、となれば、本当に何もしなくなる。

通常モードが「何もしたくない」気分なのだから。笑

「何もしない」ということをしたい

自分がしたいことは「何もしないこと」だと気づいたのは二十代の半ばごろ。

ある朝、自分がしたいことって何だろうと考えながら犬の散歩をしていて、はたと気づいた。

あ・・・なんだ・・・ボクは何もしたくないのか!

そんな自分にまあまあ残念な感じはしたが、得心もした。

どおりで、将来自分が何をしたいかと考えても全然ピンと来ないはずだ。笑

もちろん「何もしたくない残念な人間」だからといって、何もしないわけにはいかない。

生きている以上、最低限のことはしなければならない。

食べたり、飲んだり、そのために仕事したり、人間関係を構築したり。

クリスチャンとして求められることもある。

そんなことを考えつつ、自分はどう生きればいいのだろう?と考えた結果、自分にとって最善のライフスタイルは晴耕雨読なのかなと思うようになった。

唯一、「本を読む」のは苦にならない。

(年齢を経る事に細かい字を長時間見るのは疲れるようになってきたが)

男して「自給自足」に対する憧れがある。

クリスチャンとして聖書研究と祈祷に時間を割きたい。

そんなこんなで、晴耕雨読の生活を送りたいという思いを抱きはじめて十数年。

昨年末、はからずも晴耕雨読につながる環境を手に入れることができた。

とにかく毎日草刈りが出来るように頑張るよ

雨読は全然問題ない。

ただ、問題は晴耕。

畑作りどころか、その前段階の草刈りさえままならない。

例年のごとく、春から梅雨に入るあたりまで、心身ともに調子を崩す。

というわけで、今現在、庭も畑も草ぼうぼうである。

このままではいけない。

まだ体調は万全ではないが、少しずつ心の調子は回復して来ている。

「自分を打ちたたいて従わせる」という精神にのっとり、今朝はちょっとだけ草刈りに従事した。

草刈り機がないので、小さな草刈り鎌での除草作業。

仕事としては大して進んだわけではないが、草刈りのために外に出た、ということだけでも自分を褒めてやろう。

畑もまともに出来ないくせに、ニワトリやヤギを飼って、卵や乳を入手したいなんてことも考えている自分を受け入れてやろう。

ともかく、生きている間に、畑だけはできるようになって、いろんな作物を作れるようになりたい。

そのためにも、とりあえずは、庭や畑が草ぼうぼうの状態からは早く脱したい。

そこから脱すれば畝作り。

秋に備えたい。

できれば、夕方からまたボチボチと草刈りをしよう。

できなくても、自分を責めないでやろう。

と、ついつい、自分をやさしく打ちたたいてしまう。

やれやれ…

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