なんのために生きるのか?聖書の答えの一つ


どうせ死ぬのに、なんで生きる必要があるのだろう?

そんなふうに思ったことはないだろうか?

そんなこと、全然思ったことがない、という人もいるだろう。

でも、そんなことばかり考えている人もいるだろう。

私は、どちらかというと後者。

どうせ死ぬのに…

ふと、むなしくなることがしばしばある。

それが悪いこととは思わない。

おかげで、私は、物事にあまり執着しない。
執着しなさすぎるので、もう少し執着したほうがいいのかな?と思わないでもない。

それはそれとして、聖書にこんな言葉がある。

「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカの福音書 12章 20節)

これはイエス・キリストの「たとえ話」の一節(キリストは真理を分かりやすく教えるために「たとえ話」をよく用いた)。

何年分もの食料や財産を蓄え、人生はこれで安泰だと喜ぶ男に対する辛辣な神の言葉だ。

地上でいくら財産を蓄えても一銭たりとも死後の世界に持っていくことはできない。

だから、地上に財産を蓄えるよりも、天国に財産を蓄えなさい。

イエス・キリストはそのように教えた。

もちろん、これは地上に財産を蓄えることを否定する教えではない。

しかし、天国に財産を蓄えることをないがしろにしてたら、それは虚しい。

では、天国に財産を貯蓄するためにはどうすればいいのか?

それは私たちが「善」を行う時である。

「善」とは、言い方を変えれば人々の必要に応えることだ。

すなわち、私たちが人々の真のニーズ(表面的な事柄ではなく)を満たすことに努めれば、人生は心豊かな希望にあふれたものとなる。

聖書はそう教えている。

そもそも人間は互いに仕える(サービス)ために造られている。

充足した人生を送りたいと願うなら、サービス(奉仕)を生活の中心に置くこと不可欠。

さて、すでにこの時点で「どうせ死ぬなら、なんのために生きるの?」ということについの聖書から一つの解答は出ている。

それは「善」を行い、天国に豊かな財産を築くためである。

ふと、むなしくなった時は、是非、この聖書の教えを思い出して欲しい。

私もそうしている。

地上に財産を蓄えることも大切だ。

しかし、それ以上に大切なのは、その財産を用いて、天に宝を積むこと。

そのことを忘れなければ、よくも悪くも地上の財産に振り回されることは少なくなるだろう。

聖書にはこれ以外にも、人間が何のために生かされているのか?ということに対する解答がある。

是非、あなたも聖書を読んでみて欲しい。