新改訳聖書の個人的に名訳だと思う箇所を紹介してみる。「信じきった人」(ルカの福音書1章45節)


聖書には様々な翻訳があるが、完璧な翻訳などない。

どれも一長一短である。

しかし、部分的にはこれは名訳だなと思うものはある。

たとえば、ルカの福音書1章45節。

この箇所に関して言えば、私は新改訳聖書の訳文が大好きだ。

広告

個人的に名文だと思う箇所

実際のその訳文は次のとおり

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。(新改訳)

ここで「信じきった」という言葉をチョイスしてくれた訳者に、私は心からの賛辞と謝辞を送る。

他の翻訳ではこうは訳されていない。

たとえば今や日本語聖書の大方を占めるようになった新共同訳では

主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。(新共同訳)

と訳されてる。

一昔前の教会で主に使用されていた口語訳聖書では

主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう。(口語訳)

さらにその前の文語訳では

信ぜし者は幸福(さいわい)なるかな、主の語り給ふことは必ず成就すべければなり。(文語訳)

他の訳はこんな感じ。

主によって語られた事は実現すると信じた女は、なんと祝福されている<幸福である、うらやましい状態にある>ことでしょう。(詳訳聖書)

神様が語られたことは必ずそのとおりになると信じたので、神様はあなたに、このような祝福をくださったのです。(リビング・バイブル)

主から自分に告げられたことが成就すると信じたかたはほんとうにお幸せなことです。(フランシスコ訳)

他の翻訳では「信じきった」という表現は使われていないので、もしかしたらイレギュラーな訳なのかもしれない。

ニュアンスの違い

しかし、「信じた」と「信じきった」ではだいぶニュアンスが違ってくる。

たとえば次のような文章。

A.彼は奥さんのことを信じている。

B.彼は奥さんのことを信じきっている。

全然、雰囲気が違うご主人がイメージされないだろうか?

「奥さんのことを信じているご主人」


「奥さんのことを信じきっているご主人」


信頼度を数字で表すとするなら「信じている」が100%だとすると「信じきっている」は120%、いや、ひょっとしたら1000%ぐらいになるかも。

ゆえに「信じきる」との言葉には一種の危うさも感じる。

周囲からは「信じきって、本当に大丈夫なの?ほどほどがいいんじゃない?」との声が聞こえてきそうだ。

実際、ルカの福音書1:45で「信じきった人」と表されたイエスの母マリヤは「危うい」身であった。

というのも、彼女は天使から「処女として身籠もる」とのお告げを受けていたのだ。

そのお告げを信じること自体、一般的に考えれば危ういことなのかもしれないが、それが実現したならば、彼女はさらに危うい状態になる。

というのも、もし、結婚前に妊娠してしまえばどうなるか。

周囲が「処女が身籠もる」など信じるはずもなく、不道徳な行為をしたとみなされ(当時においては)処刑される可能性もあった。

にもかかわらず彼女は天使のお告げを受けた時、神のことばのとおりこの身になりますようにとそれを素直に受け入れたのだ。

このような信仰の姿勢を表現するのに「信じた」だけではちょっと物足りない。

信じきった」という言葉のほうがマリヤの「完全に神に信頼しきった」信仰の姿勢を醸し出す。

そのような意味で創世記に登場する、信仰の父アブラハムもまた「信じきった人」と言えるだろう。

そうでなければ、自分の子イサクを燔祭として捧げよ(端的に言えば「殺しなさい」)なんて神から言われた時に、捧げられるわけがない。

イサクを捧げたら、彼をして多くの子孫を残すと言われた神の約束はどうなるのか?

そんな疑問も抱いたはずだ。

神は真実なお方だから、約束を違うはずがない。しかし、イサクを殺せと仰る。これは一体どういうことか?と、煩悶したことだろう。

そして、最終的には、そうか、創造主なる神は私がイサクを殺しても、復活させてくださるのか!という結論に行き着いた…のであろうとの見解をヘブル人への手紙の著者は示している。

実際は神はアブラハムの信仰を試されただけで、彼がイサクに手をかけることは許されなかったわけだが、それにしても、そこに至るまでの一連の思考と行為を考える時、アブラハムは、ちょっと危なすぎるおじーちゃんに思えなくもない。

そう「信じきってる人」は普通の人から見れば「ちょっと危ない人」なのだ。

だから異邦人の使徒パウロもこんなふうに言われている。

パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」と言った。(使徒の働き 26章 24節)

パウロとしてはごく当たり前の「福音」を伝えていたのだが、フェストという総督からは、お前ヤベーよ、頭おかしーよ!と言われたのである。

神を「信じきる」神の目に「幸い」なクリスチャンになりたいと願うなら、おいおいコイツちょっとやべーよ!と思われるぐらいの信仰者になる覚悟が必要…ということか?

それはともかく「信じきった人は幸い」との言葉は私自身の信仰を鼓舞してくれる名訳である。(学問的にどーのこーのは知らんけど)

神を「信じきる」ためにも、もっと深く神を知るものでありたい。

そして、いい意味で、ちょっと「危うい」人になりたい。笑

広告

シェアする

広告