「生きてる」ってだけでも偉いと思うよ。自分を褒めてあげていいんじゃないかな?


「躁(そう)」の時はあらゆることに興味が持てるが「うつ」の時はあらゆることに興味が持てない…

つい数日前までは軽躁状態だった。

「自然観察」に夢中になり「昆虫少年」ならぬ「昆虫中年」と化し、身近な様々な昆虫を撮影し、また採取した。

しかし、一昨日あたりから、急に興味が薄れて、昨日、ただの「中年」に戻った。

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軽躁時には好奇心旺盛になるが…

ちなみに前回の軽躁状態になった時は「小説」を書くことに夢中になっていたが、その熱も2週間ほどで冷めた。

さらにその前は急に「落語」に興味が湧き、YouTubeでイロイロと聞きまくっていた。

そんな感じで「躁」の時期はその時その時、何の脈絡もなくさまざまな事に興味を抱き、夢中になるが、せいぜい1ヶ月から3ヶ月の期間で熱が冷めていく。

結局、何事も中途半端に終わり、何事も身に付かない。

もともと飽きっぽい性分ではあるが、それに「躁うつ」の症状が加わるので、自分でも戸惑う。

昨日と自分と今日の自分との感じ方、考え方のギャップに、本当に同じ自分なんだろうか?と疑わしく思ってしまうこともある。

「そう(軽躁)」の時は、どうして今まで自分はこれに興味を持たなかったのだろう?人生損してきたぜ!みたいに思うが、「うつ」に入ると、どうして私はこんなことに興味を持ったのだろう?と不思議になる。

寛解しそうで、寛解しない…

昨日まで意気揚々と人生を楽しんでいたはずなのに、今日になって朝から意気消沈して人生を儚(はかな)む。

何か意気消沈するような出来事があって意気消沈するならば分かるが、そんなこと何一つないにも関わらず、急に寝込んでしまうぐらい意気消沈したりする。

ここ二十年以上、ずっと、その繰り返し。自分でも嫌になる。

しかし、1週間も2週間も寝込んでしまっていた頃に比べたらだいぶマシにはなってる。

時には寛解したかな?と思えるぐらい、しばらくの期間、調子が良くなる時期もある。

しかし、そんなことを思ってる矢先、

ま〜だだよヽ(*^ω^*)ノ

ってな感じで「うつ」の野郎が突如、姿を現わすのだ。

…くそう…まだいたのかあ…

と、また意気消沈するのは言うまでもない。

それがまさに「今」。

いい年をしたオッさんになってもまだなお克服ずか…と、自己嫌悪に苛まれがち。

考え方、休み方

しかし、「うつ」に年齢は関係ない。

いつだって、誰だって「うつ」になる可能性はある。

「躁うつ」になる可能性だってあるし、「統合失調症」になる可能性だってゼロではない。

そういった意味では私のように比較的早い時期から「うつ」や「躁うつ」との付き合いを深め、ある程度、付き合い方をわきまえているほうが、中高齢になって突然「うつ」になるよりはマシかもしれない。

と、少しでも前向きに考えるように多少は心がけている。

ただ、この時期を早く抜けるために1番の策はとにかく「休む」ことだろう。

それも、ただ単にカラダを「休ませる」だけでなくココロを「休ませる」ことが大切。

「うつ」になる人はカラダは「休ませている」状態でもココロは「休んでいない」状態のことが多いように思う。

時にはカラダを休ませることに罪悪感を抱いてしまい、休息を取っている間中、ココロでは自分を責め続けていることもある。

なぜ自分はこんなふうなんだ、どうして、まともに生きることができないんだと、自分で自分を苦しめてしまっているのだ。

そんな状態だと、なかなか「うつ」の状態から抜けることは難しくなる。

自分を褒めてあげる

「うつ」の期間が来てしまうのは致し方ないことかもしれないが、その期間を過ごす中で「自分を褒める」ことをこころがけてみてはどうだろう?

最近はそう思うようになった。

何も自分を褒めるところなんて見当たらないと思わないでもない。

しかし、そんなときは「今、生きている」という事実を褒めればいい。

精神的に病んでいる中ではただ「生きる」ことも大変なことだ。

希死念慮に悩まされている人も少なくないだろう。

かくいう私も希死念慮には長い間、悩まされて来た。

幸い、以前ほど酷い状態からは脱しているが今も時々そのような思いに駆られることもある。

「生きている」ことを褒めろ!って言っても、自分は死ぬ勇気がないだけ、死ねるものなら死にたいと、言う人もいるかもしれない。

そうであったとしても自ら「死」を選択しなかったことは賞賛に値する。

自らの手で、自らを「死」に至らしめることは最悪の判断である(尊厳死は別として)と思うからだ。

とにかく「生きる」

どちらにしろ私たちはみな死ぬ。

あわてる必要はない。

人生の半ばで自ら死を選択した方を責める気持ちは全くないが、最後まで「生」を全うしなければ見えてこないこともあるのではないだろうか?と私は思っている。

クリスチャンとしては最後まで「生」を全うすることによってしか到達できない「霊的成長」があるのではないか?という信仰もある。

とは言うものの、もし聖書の教えと照らし合わせて「安楽死」が許されるならば、自らの「病」や「別離」や「老い」と向き合う中で、それを選び取らない自信は全くない。

ただ今のところ「安楽死」が、神のみこころに叶うとは私には思えない。

ただただ、神の助けを求めつつ「今日」を、また「明日」を生きるのみである。

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