人目に隠れたクリスチャン

外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。(ローマ人への手紙2章28-29)

上記の新約聖書の言葉の「ユダヤ人」を「クリスチャン」、「割礼」を「洗礼」と読み代えてもパウロが伝えようとした本質的内容は変わらないだろう。

実際、それらの言葉を入れ替えて書いてみる。

外見上のクリスチャンがクリスチャンなのではなく、外見上の洗礼が洗礼なのではありません。かえって人目に隠れたクリスチャンがクリスチャンであり、御霊による心の洗礼こそ洗礼です。

割礼や洗礼はあくまでも象徴的儀式である。

それは、それらの儀式にあずかったものが「この世」と分かたれた存在であることを意味する。

だから、もし「割礼」や「洗礼」を受けていても、この世を愛する生き方をしているなら、「行い」の伴わない「信仰」が死んだものであるのと同様、意味がない。

ユダヤ人であることやクリスチャンであること、また割礼という儀式や洗礼という儀式を否定するわけではない。
ユダヤ人として、イスラエル民族に課せられた諸規定を守ること。

クリスチャンとして教会の規則に従うことはとても大切なこと。

しかし、それらの規定を守っていても、その本質を見失い「選民」として「神の愛」に生きないなら、それこそがユダヤ人であること、クリスチャンであること、また「割礼」や「洗礼」を軽んじることになることを忘れてはならない。

ユダヤ人であろうがクリスチャンであろうが「選民」であることにあぐらをかき、それにふさわしい歩みをしていないとサタンに足をすくわれることになる。

十分に気をつけなければならない。

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