神が私の味方であることを知るために大切なこと

イエスを救い主として信じ、自分の人生の主人として心に迎え入れる時、私たちにはとてつもない素晴らしい祝福がもたらされる。

その素晴らしい祝福の一つが、創造主なる神が、私の味方になってくださるということ。

これが、どんなに私たちにとって力強いことであるか、私たちは理解しているだろうか?

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神が味方であるとは?

それは日本の自衛隊とアメリカの軍隊を合わせたよりも、はるかに強大な力を持った存在が、自分の味方であるということである。

それではピンと来ないというなら、たとえば、大横綱の白鵬関がいつも自分のボディガードとして、自分の行くところどこにでも随行していることを想像してみて欲しい。

さらには、その白鵬関が、行く先々で必要な全てのものを買ってくれるのだ。

私自身は臆病で貧乏であっても、白鵬関がずっと一緒に居て、私を守り、私を養ってくれたら、どんなに心強いことか。

もちろん、創造主なる神は「霊」なので目には見えないし、養ってくださるといっても、天から金が降ってくるわけではない。

だから、白鵬関のたとえとは、多分に異なる部分もある。

しかし、私たちと共におられる神がどのような存在であるかを知れば、私たちはつゆだに恐れる必要はないのだ。

神を信じていても恐れる理由

では、なぜ恐れてしまうのか?それは、私たちが本当の意味で神を知らないからである。

いや、私は知っている、でも、恐れに囚われてしまうのだ、と反論される人はもおられるかもしれない。

もしかすると、そんな人は「頭(知性)」で神を知っているだけであり、「心(霊性)」では神を知らないのかもしれない。

神は霊であるからして、本当の意味で神を知るためには、自らの霊において神を知る必要がある。

そのためには「神とともに歩む」ことが求められる。つまり、それは「真の礼拝者」となることである。

私たちは「礼拝者」として創造されていることを忘れてはならない。

礼拝とは犠牲である

では「礼拝」とは何か?

それについては聖書から、狭義に、また広義に様々な表現の仕方ができるだろう。

しかし、その本質は「犠牲」である。

正確には愛に伴う「犠牲」である。

「犠牲」の伴わない礼拝などない。

「犠牲」には「痛み」が伴うので、私たちは出来れば、それを避けたいと思う。

そして、実際に避けてしまう。

その結果、私たちは神を見失ってしまうのだ。

逆に、私たちが神のために「痛み」を覚える「犠牲」を捧げれば捧げるほど、私たちは神を見出すことになる。

そして、神が味方であることの素晴らしさをただ頭で理解するのではなく、心で知ることになる。

と、偉そうなことを言ってきたが、私自身、まだまだ神を知ることには程遠いものである。

「今日」というこの日に神のために、また人のために「犠牲」を払うことを厭わないもとのなりたい。

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