本物の信仰

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」マタイによる福音書‬ ‭7:21‬ ‭

私たちクリスチャンは「信仰」によって救われると信じている。

平たく言えば信仰によって、天国に行くことができると信じている。

たしかに、それは真実なのであるが、その信仰というのは、あくまでも本物の信仰であって、見せかけの信仰ではダメということを忘れてはならない。

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本物の信仰、偽物の信仰

偽物の信仰とは何か?

それは「行い」の伴わない信仰である。

では、その「行い」とは一体何か?

それが、いわゆるミニストリー(奉仕)でないことは次の聖書の言葉から明らかである。

「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」マタイによる福音書‬ ‭7:22-23‬ ‭

洗礼を受けていても、毎週日曜日に教会に集っていても、聖書をよく読んでいても、また、素晴らしい説教をしていても、それらが、その人の信仰が本物であるとの証明になるわけではない。

「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」
‭‭(マタイによる福音書‬ ‭25:40‬ )

とあるように、私たちが隣人に対して、具体的な形で「愛」を表しつつ生きているかどうか、それこそが、その人の持っている「信仰」が本物かどうかの指標なのである。

「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。」(ヨハネの第一の手紙‬ ‭3:14‬ ‭)

命に至る門は狭い

そのようなことを考えると、本物の信仰を持っている人は少ないような気がする。

少なくとも、私の信仰はまだまだ本物とは言えない。

本物の信仰を持つことは決して簡単なことではない。

「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイによる福音書‬ ‭7:14‬ )

と記されているとおりである。

永遠の命に至る信仰を得ることが、簡単だなんて誰が教えたのだろう?

もし、簡単だったら

「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカによる福音書‬ ‭18:8‬ )

とイエス様が嘆かれる必要はなかっただろう。

自分自身の信仰を省み、果たして本物の信仰であるか?と自問する時、正直、自信を持てない。

願わくば、主が来られる時までに、本物の信仰が与えられるように、神の真実の愛に生きるものと変えられますように。

「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」(ピリピ人への手紙‬ ‭2:12‬ ‭)

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