最高の人生を送るために。神を恐れる(畏れる)ことを学ぶ。

わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った(‭‭創世記‬ ‭22:12‬ )

「主を恐れることは知識のはじめ(箴言‬ ‭1:7‬ ‭)」と聖書は教える。

どれだけ博学であったとしても、神を恐れる(畏れる)ことを知らない人は、人として最も大事なことが欠けていると言わざるを得ない。

ある人は、そのような状況を、気が狂った人が銃を持っているような状態だと言う。

日本では銃を持つことが規制されているので、表現の綾ですまされるかもしれないが、アメリカなどの銃社会では文字通り、頭のおかしな人が銃を持っていたりする。

考えただけでも、ゾッとする。

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神を畏怖する心の大切さ

神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。(伝道の書‬ ‭12:13‬ ‭)

とあるように、私たち人間は「創造主なる神」を「恐れる(畏れる)」心を持って生きるのが、本来の在り方である。

神に対する「畏怖の念」を持っていないと、人生は必ず間違った方向に向かう。

自分はクリスチャンだからと安心してはいけない。

クリスチャンであっても、ともすると、この神に対する「畏怖の念」を忘れてしまうことも往々にしてある。

そんな状態にある時、私たちはふとした瞬間に、神の前にすぐに罪を犯してしまうようになってしまう。

有名な牧師や伝道者が、お金や名誉、異性などに目がくらまされ、堕落してしまうことがある。

しかし、それよりずっと以前に、彼らの心は、神に対する「畏れ」が希薄になっている。

神を畏怖することを学ぶ

私たちは「神を畏れる」ことを日々学ばなければならない。

そのためにも、聖書を読み、よく祈らなければならない。

神に対する「畏れ」は自然に身につくものではなく、学んで身につけるべきもの。

今現在、自分の中に神に対する「畏れ」があるかどうか?ということを定期的に吟味することも大切だ。

その一つの方法として、日々の生活の中で自分は神に対して最高のものを捧げているかどうか?と自問すると良い。

信仰の父アブラハムは自分の最も大切なものを神の前に捧げることをとおして、神に対する「畏れ」を表明した。

もし、私たちが、神に何か捧げることを惜しんでいるならば、それは神に対する恐れが希薄になっている証拠だ。

使徒の働きに登場するアナニヤとサッピラの夫婦は神に捧げることを惜しみ、教会の指導者やメンバーを欺いた。

カインとアベル物語で兄カインの捧げものが神に受け入れられなかったのも、それが最高の捧げものではなかったからだと思われる。

カインの心に神に対する「畏れ」が欠如していたため、神は彼の捧げものを受け取ることを拒まれたのではないだろうか?

最高の人生を送るために

聖書によると、私たち自身が神への供物である。

私たちが、自身を最高の状態で捧げることを惜しむならば、私たちの人生は神に受け入れられない可能性もなきにしもあらず。

もし、私たちが人に与えることを惜しんでいるなら、それは、神に捧げることを惜しむことであることも忘れてはならない。

なぜなら、この小さき者のひとりにすることは、神に対してすることと同じだからだ。

「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭25:40‬

もし、あなたが人に与えることを惜しんでいるなら、あなたのうちに神に対する畏れは希薄になっている。

それに気づいたなら、私たちはすぐに悔い改めるべきである。

神に最高のものを捧げ続ける時にこそ、私たちは最高の人生を送ることができるのである。

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