キリスト教信仰は自由と主体性を奪う?いえいえ、実際は全くその逆です。

むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」(ヤコブ4:15)

キリスト教に入信すると自由を失ってしまうのではないだろうか?

そんな心配をされる方もいるようです。

しかし、実際は全く逆です。

真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:32)

と、イエス様は言われています。

主体性を失うこともありません。

むしろ、聖書の言葉を学び、それが血となり肉となるならば、人生の軸がしっかりしてくるので、より主体的な生き方をすることができるようになります。

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人生はあなたの裁量にかかっている

確かに、聖書によると私たち人間と創造主なる神との関係は「しもべ(奴隷)」と「主人」の関係です。

キリストを信じる信仰によって「子」としての立場を与えられていますが、だからといって、「主人」と「しもべ」の関係が変わるわけではありません。

「しもべ」には「主人」の意向に沿って仕えることが求められますので、そこには自由も主体性も無いように思えるかもしれません。

しかし、

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のよう(マタイ25:14)

との言葉からはじまる譬え話で明らかにされているように、主人である神は、しもべひとりひとりに能力(タラント)を与え、それをどのように用いるかは、しもべの裁量に任せておられます

ですから、私たちは原則的には自由に「あのことをしよう、このことをしよう」と主体性を存分に働かせて、楽しみつつ生きることが許されているのです。

ルールがあればこそ楽しめる人生

ただ、「神のみこころの範囲内」で、ということは忘れてはいけません。

それは「神様が定めたルールの範囲内で」とも言えます。

若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。(伝道者の書11:9)

との言葉も基本的に同じことを言っているように思われます。

あなたは自由に生きていいんだよ。

ただ、最終的には全てのことが神の前に裁かれる時が来るからね(だから、神が定めたルールの範囲内で楽しんでね)。

と、神様はそんなふうに言っておられるのではないでしょうか?

神様が定めたルールを守りつつ人生を楽しむ。

当たり前のことと言えば、当たり前のことかもしれません。

野球だってルールがあって、それが守られることによって、野球が野球として成立し、また、それを楽しむことができるわけです。

人生にだってルールがあって、それが守られることによって、人生が人生として成立し、それを楽しむことができる。

そう考えることができます。

聖書は人生の「ルールブック」

ただ、野球の場合は、そのルールを定めるのは人間ですが、人生の場合は、そのルールを定めるのは人間ではありません。

野球を作ったのは人間ですが、その人間を造り、人生を与えられたのは創造主なる神。

ですから、その人生のルールを定めるのは当然、創造主なる神なわけです。

で、そのルールが記されているのが「聖書」ということになります。

「聖書」は人生を楽しむための「ルールブック」なんですね。

ということで、人生を真に楽しむためには「人生のルール」を知らなければなりません。

是非、あなたも人生をさらに豊かなものとするために「聖書」をとおして人生のルールを学んでみませんか?

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