信じるだけで本当に救われるのか?

キリスト教では「信じるだけで救われる」と教えていると思われているが、本当にそうだろうか?

答えは「はい」であり、また、「いいえ」である。

「はい」という答えを後押しする聖書のことばとしてはパウロの記したローマ人への手紙の10章10節が有名である。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:10)

「いいえ」という答えを後押しすることばとしてはヤコブの手紙の2章14節。

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。(ヤコブ2:14)

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なぜ相反するような教えが?

どうして、同じキリスト教の聖典である新約聖書において「救い」について相反すると思われる教えがあるのだろう?

実はこれ、キリスト教における「信じる」ということばについて正しく理解していれば、決して相反する教えではない。

ヤコブの手紙はキリスト教における「信じる」ということについて誤解している人々を諭すために記されているのだ。

主の兄弟ヤコブの主張を別のことばで言い換えるなら、「真理」を知っていることと、「真理」に生きることとは別ですよということになる。

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。(ヤコブ2:19)

上記の聖書のことばから、キリスト教における「信じる」ということばには「従う」というニュアンスも含まれていることが読み取れる。

悪霊(サタン)や悪霊(他の堕天使)だってイエスがキリストであるとの真理は信じている(知っている)。

しかし、彼らはイエスに従おうとはしない。

同じように、創造主なる神の存在と、イエスが救い主であるとの真理を知り、それを認めているだけでは、キリスト教で言うところの「救い」につながる「信仰」とは言えない。

ゆえにイエス(真理)に従って生きようとしない人は、悪魔ととともに滅びてしまう。

ヤコブはそう教えているし、パウロだって、そのことに異論はなかったはず。

むしろ、ヤコブはパウロの教えていることを誤解している人の誤解を解くために手紙を書いたわけだから、パウロはそのことに感謝したことだろう。

キリスト教における「信じる(信仰)」とは?

神を「信じる」とは神に「従う」ことである。

イエスを主と告白するとは、イエスに全信頼を置き、イエスの後に付き従って行くとの誓いである。

そう理解しておけば、キリスト教における「信じる(信仰)」について誤解することはないだろう。

「従う(信仰)」ことには必ず「行い」が伴う。「行い」が伴わない「従順」なんて存在しない。

とは言っても「完全(完璧)な行い」が求められているわけではない。

人間に神に認められる「完全な行い」は不可能。

大事なのは神に「従順」に生きようとする姿勢である。

「信仰の従順」こそ「福音」の目的。

パウロはそのことをローマ人への手紙の最初と

このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。(ローマ1:5)

最後に記している。

私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、 世々にわたって長い間隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、 預言者たちの書によって、 信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、(ローマ16:25)

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