今年ははっきりモノ申す。人生に波風立てていいじゃないの。

これまでは、人生、できるだけ波風立てないで、ひっそりと静かに穏やかに過ごしたいと思って来た。

争いを避けるために、言いたいことも言わず黙って来た。

それって、おかしいんじゃないの?と思うことがあっても、ぐっと言葉を飲み込んで来た。

それもこれも人生に余計な波風立てたくないから。

人付き合いをできるだけ避けて来たのもそう。

人見知りな性格だからという理由もあるが、実は、人生を穏やかに過ごしたいと言う理由が先行していた。

人と会わなければ、人間関係における軋轢が生じる可能性は減る。

自分で言うのもなんだが、繊細な私の心が傷つくことを回避できる。

しかし、この年、私はそんな生き方をやめようと思う。

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人生、後悔しないために、率直に生きる

はっきりとモノ申すべき時にはモノ申す。

そうしなければ、人生後悔する。

最近、痛切にそう思うようになった。

クリスチャンは穏やかであるべきだが、それ以上に率直であるべきだ。

クリスチャンの理想像であるイエス・キリストは誰よりも率直だった。

彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです(マルコ12:14)

クリスチャンがクリスチャンとして真実な生き方をしたいと願うなら、人の顔色を伺っていてはダメだ。

いい意味で空気を読めない、いや、空気を読まない人間になる必要がある。

相手が気分を害するのでは?

場の雰囲気が台無しになってしまうのでは?

そんなことばかり気にしていたら、真理は語れない。

あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。(箴言27:5)

と、ソロモンも語っている。

ので、今年は「ひそかに愛する」のはやめて、「あからさまに責める」。

嫌われてもいいじゃないか

率直にモノ申す時、私を嫌う人もたくさん出てくるだろう。

嫌われたくない。

率直な生き方を妨げようとする思いの一つだ。

しかし、嫌われたっていいじゃないか。

大いに嫌われようじゃないの。

イエスだって、率直に真実を語った結果、大いに嫌われたのだ。

そして、大いに嫌われた結果、十字架につけられたのだ。

同じようにクリスチャンも嫌われるのではなかったか?

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(マタイ10:22)

嫌われることを恐れてて、真のクリスチャンとして人生を全うすることができるとは思えない。

真理のためだったら、殺されたって平気だ、と思えば、嫌われるぐらい、きっと何でもなくなる。

波風の立たない人生に真理はない

クリスチャンが、波風立たない人生を望んでしまうならば、それは矛盾を孕んだ信仰になってしまう。

真のクリスチャンに波風の立たない人生はない。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(Ⅱテモテ3:12)

時には神の正義のために自ら波風を立てる気構えがなければならない。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)

あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。(ルカ12:51)

とイエスは言われた。

そう言われただけでなく、神の神殿で商売する不届き者を追い出すために大暴れされた。(マルコ11)

たしかに、私たちクリスチャンは平和を作り出す存在として召された。

しかし、それは偽りの平和ではない。

それは神にある「真の平和」である。

そして、それは戦い勝ち取っていくものである。

嫌われ、憎まれ、蔑まれつつ、それを耐え忍んで辿り着いたところに広がる「約束の地」である。

「神の平和」は日和見主義的な「和をもって尊し」の精神とは質的に全く異なる。

クリスチャンよ、恐れるな!おののくな!主がともにおられる!

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