「躁鬱」の経験も神の祝福の計画にあることを信じる。

今回の「うつ」は抜けそうで、なかなか抜けない。

「躁転」しそうで「躁転」しない。

「躁転」するのも、それはそれで問題であるが、私の場合大概「軽躁」なので「うつ」よりはマシである。

「軽躁」時は仕事もはかどる。

是非「躁転」して欲しいものだ。

もちろん、普通のテンションに戻るのが、一番なんだろう。

しかし、最近は「普通」ってどんな感じだったかな?と思い出せなくなっている。

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「うつ」の終わりに浮かぶ言葉

それはそれとして、今朝、頭にふと浮かんだ聖書のことばがある。

それは旧約聖書は伝道者の書12章の「神を恐れよ、神の命令を守れ。これが人間にとって全てである」との一節。

今までの経験では、この聖書のことばがふと浮かんだら、それが「うつ」の期間が終わる兆候であることが多い。

「うつ」の期間、堂々巡りになってる思考を、その聖書の言葉が進路を変更させ、現実に繋ぎ止めてくれる。

ハッと我にかえるような、そんな感覚を覚える。

全てが神の御手にあることを信じる

「躁うつ」のサイクルを自覚するようになって10年近くが経とうとしている。

1年の1/3は「うつ」の期間で、その時その時、程度に差はあれど希死念慮や破壊衝動に悩まされる。

その期間は本当にツラい。

そのために仕事が思うように進まないことがもどかしい。

その度に妻に「死にたい」だの「離婚してくれ」だのと、情けないことばかりを口にして、迷惑をかけてしまうのも忍びない。

クリスチャンなのに…と落胆する。

どうして神は私をこんなに弱い者として造られたのか?

神が全能であるなら、なぜ祈りに応え、癒してくださらないのか?

こんな状態でクリスチャンとして神を信じ続ける意味があるのか?

疑問は尽きない。

しかし、これもまた神の御手の中にあることを信じよう…と思えるようになっているのは、回復しつつある証拠だ。

感謝である。

長いこと「躁うつ」に悩まされていることの意味について、私は神に問うている。

神はまだ明確な答えを与えてはおられない。

しかし、神がおられるなら、そして、その神が私を愛しておられるなら、必ず意味があるはずだ。

そう信じて、明日もまた生きてみようと思う。

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