ファンダメンタルなクリスチャンである私が、息子にゲイだと告白されたらどうすればいいのだろう?真剣に考えてみた。

私はいわゆる「キリスト教原理主義(ファンダメンタル)」と呼ばれるキリスト教会に所属している。

「原理主義者」なんて言うと、ものものしい印象を受けるかもしれないが、基本的には素直で純粋な人たちである。

なにしろ、聖書を「創造主なる神」の言葉として素直に信じ、その中核となる愛の教えに従って生きようとしている人々なのだから。

広告

クリスチャンの倫理観と現代社会の倫理観のズレ

ただ、現代社会に浸透する倫理観と聖書の教える倫理観にはかなりの乖離が生じている。

特に性倫理に関しては顕著である。

たとえば、現代の日本社会では婚前交渉は当たり前のこととされる。

むしろ、結婚まで異性と性的関係を持たない人のほうが、堅いとか、遅れてるとか、可愛そう、などと言われる始末。

ある時、30代のクリスチャン独身男性が、恥ずかしながら、私は性体験がないんです…なんて恥ずかしそうに告白して来たことがある。

え?何が恥ずかしいの?

クリスチャンだったら当たり前でしょ?

私も結婚まで性体験なかったし、妻以外に関係を持ったことはないよ。

むしろ、それを誇りに思ってる。

と、答えたが、信仰生活の長いクリスチャンでも、現代社会の(私たちクリスチャンから見れば)歪んだ性倫理に毒されてることに驚いた。

同性愛問題について考えるようになったキッカケ

前置きが長くなったが、私はそんな環境で生きて来たので、当然、同性愛には否定的な見解を持っている。

同性愛者を社会的に差別することには反対だが、キリスト教原理主義的立場としては「同性愛」を是とすることは出来ない。

ただ、私の所属する教会はわずかな人数でほそぼそと礼拝を守る田舎の教会。

こんな小さな田舎町の教会で同性愛問題に関わることなんてないだろうと、勝手な思い込みで、それほど真剣に同性愛問題について考えることはなかった。

しかし、ある時、教会の礼拝に来られていた、未信者の若い男性が実は同性愛者だったことが分かってから、その考えは変わった。

その男性が同性愛者であることは、彼が教会に来ている間は全然分からなかった。

それが分かったのは、彼が、ある時を境にぷっつりと教会に来なくなってからのことだ。

彼が急に来なくなったので、何かあったのかと信徒のひとりが心配して連絡をとった。

幸い本人は元気で、教会員とトラブルがあったとか、そんな理由で教会に来なくなったわけではなかった。

その理由は私たちが予想していたのとはまるで違った。

実は自分は同性愛者で、そんな自分が続けて教会に行くのはどうかと思って足が遠のいたと言われたのだ。

正直思ってもなかった理由だったので、連絡をとった信徒も上手にフォロー出来なかったらしい。

同性愛者だった若い男性は端正な顔立ちをした短髪の爽やか青年だった。

その言動や立ち居振る舞いからは同性愛者であるとは想像だにできなかった。

言われてみて、思い当たることと言えば、礼拝後に、その彼を含めた数人で話している時、彼の人の話を聞いている時の反応というか表情が女性ぽいな、と思ったことはある。

ちょっと口で説明するのは難しいが、男だったら、そこでそんな反応やそんな表情はしないかな?というふうな…

でも、男性だって女性以上に感受性豊かな人もいるわけで、その時はそれほど深く考えてはいなかった。

しかし、蓋を開けてみると、あれは単なる感受性が豊かな男性の反応ではなくて、女性の心を持った男性の反応だったわけだ。

同性愛問題に冷静に思慮深く関わる努力

田舎の教会だからといって同性愛問題と関係ないということはない。

同性愛問題は実に身近な問題である。

急に自分の息子が実はゲイである、と告白してきたりということもあり得なくはない。

もし、そんなことが現実に目の前に起こって来たらどうすればいいのだろう?

最終的には、神よみこころのままにと祈るしかないだろうが、目の前の現実には、それなりの対処をしなければならない。

さて、息子が実はゲイであると告白して来たら、私はクリスチャンとして、また父親として、どう接すればいいのだろう?

まずは、その事実を冷静(を装い)に受け止めてあげる努力が必要だろう。

自分がゲイである事実を告白することは一般的にも敷居が高いことだろうが、敬虔なクリスチャン家庭でそれを打ち明けるのは巨大な壁を乗り越えるようなもの。

それを打ち明けてくれたということは、私を信頼してくれていることの証しであるし、また、このままではいけない、との本人の意思の表れ、と受け止めることもできる。

とにかく、それまでに悩みに悩み抜いての決断であることを考慮して、思慮深く対応するのが賢明であろう。

ただ、人格者とされる人であっても、こと身内のことになると感情的になってしまうことも少なくない。

器の小さ過ぎる私に果たしてそんな対応ができるかどうか、まことに心許ない。

そのためにもアンガー・マネジメントを習得しておきたい。

とりあえず、そこを乗り越えられたとして、次にどうアドバイスすればいいだろう?

大丈夫!私はそのままのお前を愛してるから、自信を持って生きろ!

もし、私がクリスチャンでなかったら、そう言うかもしれない。

そのほうが、一般受けもするだろうし、私もそのほうが楽と言えば楽だ。

しかし、聖書はどう読んでも「同性愛」を「罪」とみなしているようにしか思えない。

私は聖書の教えを忠実に守りたいし、家族にもそうして欲しいと願っている。

そのままのお前を愛している!

とは言えるが、同性愛者のままで、いいよ、とは言い切れない。

もちろん、最終的な判断は本人が決めることではあるが「同性愛」に対するクリスチャンとしての見解を確立することを求めることになるであろう。

クリスチャンとして性同一性障害をどう捉えるか

一口に同性愛者といってもそうなった要因はそれぞれ違うと考えられる。

肉体的原因(遺伝・ホルモン)、精神的原因(虐待)などなど、私はあまり詳しくないので、それぐらいしか思いつかないが、たぶん、その他にも要因はたくさんあるのではないだろうか?

もし「性同一性障害」は治療が必要な病気である。

たとえば「双極性障害」のように一生付き合わなければならない障害だとしても、治療を続けることによって、男は男として、女は女として、聖書の教えにかなう性倫理の中に生きることができる。

そんな見解を持つことも可能ではないだろうか?

もちろん、今の精神医学では「双極性障害」と「性同一性障害」を同一線上に置いてはいないのかもしれない。

しかし、クリスチャンとしては「性同一性障害」を治療を必要とする「精神疾病」として捉えたほうが、聖書の教えとの間の緊張を緩和できるのではないか?と思う。

もしくは、聖書が禁じているのはあくまでも「結婚」の枠外での性交渉であり、それが異性間であろうが同性間であろうがダメ!という見解に立てば、同性愛的傾向は仕方がないけれどもクリスチャンとして「性交渉」はしないようにね、とアドバイスすることもできる。

とにかく、これは難しい問題である。

とりあえず、今の時点での自分なりの見解を記してみたが、まだ、しっくりこない部分もある。

もっと時間をかけて考えて自分なりの答えを出したい。

広告

シェアする

広告