世界を理解したいなら、聖書を学ぶことは必須であると私が考える理由。

私はクリスチャンホームで生まれ育った。

キリスト教は大きく、カトリックオーソドックス(東方正教会)プロテスタントに分けられるが、私はプロテスタントのクリスチャン。

その中でも「聖霊派」と呼ばれる、いわゆる「キリスト教原理主義」の一派に属する。

そして、その中で聖書を創造主なる神の言葉として素直に信じ、その神の教えに忠実に生きることを心がけている。

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あまり知られていない聖書的世界観

残念ながら、ここ日本においてはクリスチャン人口は1%程度。

そこにはエホバの証人モルモン教統一教会など、伝統的キリスト教会からは「異端」とされる団体に属する人々も含まれる。

また、伝統的キリスト教の信徒を自負している人たちの中でも、毎週、日曜日の礼拝(プロテスタント)、もしくはミサ(カトリック)を守っている敬虔なクリスチャンは決して多くはない。

体感的には聖書的な世界観や人生観をしっかりと身につけ、敬虔なクリスチャン生活を送る人は1000人に1人いるかいないか、ではないだろうか?

つまり、日本においては、ほとんどの人がキリスト教における聖書的な世界観、そこから派生する様々な価値観について知らない。

キリスト教原理主義的な教会で生まれ育った私の中に構築されている世界観、人生観は、ここ日本においては異質であり、理解し難く、受け入れ難い。

世界の半分は聖書の影響を受けている

しかし、世界を見渡せば4人に1人はクリスチャン。

その全てが敬虔なクリスチャンでないにしろ、聖書的な世界観、人生観に大いに影響を受けている。

さらにはイスラム教においても「聖書」は「コーラン」に次ぐ聖典とされる。

イスラム教は世界的にはキリスト教に次ぐ一大勢力。

数十年後には世界に占めるイスラム教徒の人口は、キリスト教徒のそれを越えるのではないか?と予測されている。

つまり、世界の半分以上の人々が自らの世界観が構築されるにあたり「聖書」の影響を大いに受けていることになる。

日本において知識人と言われる人の中には、聖書なんて知らなくたって、全く問題ない、事実、自分は読んだことがない、と声高に叫ぶ人もいる。

しかし、世界の状況を見渡す時に、そのような見解は的外れのように思えるのは私だけではないはず。

「的外れ」=「罪」

ちなみに「的外れ」という意味は、キリスト教における「」の概念の本質的要素である。

となるとキリスト教において「罪人」とは「的を外して生きている人」のこと。

「的を外している」ことを「人生の目的から外れている(それている)」と解釈するならば「人生の意味も目的も分からないまま生きている状態にある人」こそ「罪人」であるということになる。

ということは、ほとんど全ての人が「罪人」であることになる。

では、なぜ人間は人生の意味と目的が分からなくなっているのか?

キリスト教においては、それは創造主なる神から人間が離れてしまっているからである、という結論に至る。

だからこそ、キリスト教は全ての人に、創造主なる神の元に帰りなさい、そして、人生の意味と目的をしっかりと把握して生きなさいと教えるわけである。

聖書を知ると自己理解も深まる

どうだろう?ほんのちょっとだけ、聖書の教えを理解しただけでも、世界が広がる気がしないだろうか?

実際、あなたのキリスト教に対する、また聖書に対する理解が深まることによって、世界に対する、また、人間に対する理解は確実に深まる。

それはすなわち、自分自身に対する理解も深まることになり、そのことは、これからのあなたの人生を豊かにすることにつながる。

以上、とりとめのない文章になってしまった感はあるが、私が全ての人に聖書を学んで欲しい理由の一端を書かせていただいた。

ここまで、私の拙文にお付き合いいただき、まことに感謝する次第である。

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