キリスト教徒(クリスチャン)になるにはどうすればいいの?

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「クリスチャン」という響きに、なんとなく憧れを抱いている人が少なからずおられるようだ。

で、なんとなく、自分もクリスチャンになりたいと思っておられる。

ただ、一体どうすればクリスチャンになれるか、よく分からなくて、悶々としている。

もし、そんな方がおられたら、これから書くことが少しは参考になるかもしれない。

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洗礼を受ければよい

まず、結論から述べたい。

「クリスチャン」として教会に正式に認められるためには「洗礼(せんれい)」を受ける必要がある。

洗礼は「バプテスマ(※ギリシャ語で「浸す」という言葉に由来)」とも言われる儀式。

水を使用する儀式だが、その仕方は教派によって多少異なる。

私が所属する教会は「浸礼式」。

洗礼槽と呼ばれる浴槽のようなところに水を貼り、受洗者(じゅせんしゃ※洗礼を受ける人)は、そこに入り、儀式の中で全身を水に浸す。

洗礼槽がなければ、洗礼ができないということではない。

各派の洗礼式に必要な量の「水」が確保できればいい。

「浸礼」で洗礼を施す教会であれば、川や海、また市営プールの一角、もしくは風呂場で洗礼式をする教会もある。

海外のメガチャーチと呼ばれる数万人規模の教会では、受洗者が多すぎて、消防車の消火ホースを使って一斉に水を浴びせかけたとの話しも聞いたことがある。

「滴礼」で洗礼を施す教派であれば、ほんのちょっとの水さえあれば良いので、それこそどこででもできる。

とりあえず教会に行こう

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とは言っても「洗礼」は教会の聖職者によって行われる儀式。

なので、儀式をする場所は限定されないが、そこに牧師や神父などの聖職者がいなければ始まらない。

だから、クリスチャンになるための第一歩はまずは聖職者のいる「教会」に行くこと。

次に、受洗するにあたり、聖職者のもとで基本的な聖書の教えを学ぶこと。

当たり前のことだが、教会に行ったからといって、すぐに「洗礼」を受けさせてもらえるわけではない。

「受洗」前には最低限の聖書の学びを受ける必要がある。

そして、その学んだ内容を心から信じなければならない。

受洗前の学びの内容や期間は教派・教団・教会において多少異なるだろう。

しかし、多くの教会で用いられている「使徒信条」という告白文に記されている内容を信じることができれば、洗礼を受ける最低限の条件は満たす。

使徒信条に記されているクリスチャンが信じるべき事柄を簡単に箇条書きにしてみる。

  • 天地万物は全能なる神によって創造された。
  • 全能の神(の第二位格)であるイエスは聖霊により処女マリヤをとおして人として地上に来られた。
  • イエスは人間の罪の罰を身代わりに引き受けるために十字架で死に、そして三日目に復活された。
  • イエスは再びこの地上を裁くために来られる。
  • イエスを信じる人々は栄光のからだに復活する。

上記は、使徒信条に記されている内容の全てではない。

また、意味内容を補足した部分もある。

ともかく、最低限、上記に箇条書きした事柄を心から信じる気がなければ「洗礼」は受けられない。

偽クリスチャンには増えて欲しくない

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中には、とにかくクリスチャンというステータス?が欲しいから、信じたふりをして洗礼を受ける輩もいる。

教会によっては、その人が信じているか、信じていないか確認しないまま、ただ教会の礼拝に続けて来ているだけで、洗礼を受けさせるところもあるかもしれない。

しかし、そんな感じで洗礼を受けさせていると偽クリスチャンが増えるばかり。

私としてはそんな偽クリスチャンには増えて欲しくない。

なので、いい加減な気持ちで洗礼は受けてほしくはないし、いい加減な準備で洗礼を授けてほしくはない。

もちろん、そう思うのは私だけではない。

受洗を希望する人が聖書の学びを終え、その内容を信じるという告白をしても、ある一定期間、様子を見る教会があるのは、そういった理由からだろう。

その上で、その人が受洗後もキリスト者として教会生活を送ることができるだろうと判断して、初めて洗礼を受けることを許可するのだ。

教会には気軽に足を運んでほしい

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と、ここまで読んで、そんなんじゃ、私にはクリスチャンになるのは無理・・・と思ってしまった方もおられるかもしれない。

しかし、ここまで書いてきたことに、抵抗を感じたりしても、とりあえず、教会に行って欲しいとは思う。

というのも、いい加減な気持ちで洗礼を受けて欲しくはないが、教会自体には気楽に足を運んでほしいからだ。

それで、もし、キリストを信じる気になったり、もう少し聖書を学んでみたいと思っていただければ、クリスチャンとしては嬉しい限り。

もし、あなたがクリスチャンになることが神のみこころであるならば、きっと信じることができるようになる。

みこころでなかったら、決して信じられない。

そんなものだ。

もし、今は信じられなくても、将来において信じるよう、神が定めておられる場合もある。

今、こうして、この文章を目にしていること自体が、あなたが神からの招きを受けていることを示唆している可能性だってある。

まとめ

クリスチャンとしては、クリスチャン人口の少ないここ日本において、クリスチャン仲間が増えることは嬉しい限り。

しかし、クリスチャンとして生きることは決して容易なことではない。

今のところ、イスラム圏や共産圏のように、命の危険を感じるような危険にさらされることはないだろう。

けれども、クリスチャンであるがゆえの戦いは多々ある。

いい加減なクリスチャンであれば、そうでもないかもしれないが、キリストの教えに誠実であろうとすれば、するほど葛藤が多くなる。

だから、ただ単に「クリスチャン」という響きに憧れを抱いているなら、クリスチャンになることは止めておいおたほうがいい。

しかし、もし「真理」を求める心があるなら、「真理」を知ることができるなら、そして「真理」に生きることができるならば、というそんな思いがあるならば、教会に足を運び、聖書を学ぶことがその第一歩になるかもしれない。

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