子供のころ「神がいるなら見せてみろ」と、よくからかわれた。
しかし、クリスチャンホームで育った私にとって「神は目には見えない」存在であるのが常識。
「見せてみろ」と言われても困るんだけどな…といつも思っていた。
神の存在の証明
子供の言うことだから、論理的でないのは仕方がない。
しかし、大人になったら「目に見えない」から、それは存在しない、という論理は成り立たないことが分かる。
たとえば「空気」は目には見えない。
しかし、それは確かに存在する。
私たちは「空気」の存在を風にそよぐ木々に見ることができる。
また、それは肌で感じることができる。
神もまだ同じ。
目には見えない。
しかし、私たちはその英知を、自然の中に見ることができる。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ人への手紙 1章20節)[新改訳 第3版]
また、時には私たちはそれを肌で感じることもできる。
あやふやな神の定義
そもそも、「神」の存在を否定する人が否定している「神」とは一体どんな存在なんだろう?
「神」と一口にいっても、世界には多くの「神」と呼ばれる存在がある。
宗教は大きく唯一神信仰と多神教とに分けられるが、そこには大きな隔たりがある。
しかし、そこらへんのところが、曖昧なまま、なんとなく「神はいない」と言っている人が多い。
「神はいない」と声高に主張するなら「神」について、もっと勉強して欲しい。
神がおられるなら、こんなことがあるはずがない、と言われても、それがその人が想像する「神」であって、それを自分で否定しているだけ、ということが結構多い。
「聖書」が教える神について多少なりとも知識があれば、そんな結論にはならないと思うけどなあ、ということもしばしばある。
罪の根源
私自身、多神教における神々という意味での「神」であれば、「神はいない」という立場である。
それらが、人間の想像の産物に過ぎないことは実際にギリシャ神話などを読んでみればすぐに分かるだろう。
しかし、聖書が啓示する唯一の「神」に関しては、そうは思わない。
聖書が啓示する「創造主(神)」は実在する。
多神教の神々は、人間の想像の産物にしか過ぎないが、聖書の啓示する神はそうではない。
聖書の神は人間の想像の産物ではなく、人間こそ神の創造の産物なのだ。
なのに、その神に造られたはずの人間が「神はいない」と思っている。
これこそが、聖書が教えるところの「罪」の根源である。
だからこそ、多神教的、また無神論的、社会においては、まずなによりも、創造主なる神の存在を認めることこそ、キリスト教における「悔い改め」の一歩となる。
最後に
この記事のタイトルはあえて挑発的にしているが、実際のところ、「神はいない」と言う人の「心情」はそれなりに分かる。
しかし、神といっても様々、宗教と言っても様々、一つの宗教につまずいたからといって、全ての宗教が「悪」であると考えるのは論理的ではない。
ひとりの日本人が悪人だったから、全ての日本人は悪人だ!と決めつけられたら、え?( ゚д゚)なんで?となるだろう。
しかし、宗教に関しては同じようなことをなんの疑問ももたずに、している人が多いように思える。
確かに悪い日本人もいるけど、良い日本人もいっぱいいるよ、と。
ま、そんな感じのことを伝えたいのである。