聖書が教える人生の意味と目的。

生きる意味は?

生きる目的は?

そんなことを、誰もが一度は考えたことがあるだろう。

ただ、その答えは、両親からも、学校の先生からも、友だちからも、得られなかった。

誰かに質問しても、そんなことを考えている暇があれば、勉強しろ!

とか、

そんなことよりも遊ぼうよ!

とか、

まともに取り合ってもらえない。

そんなこんなしているうちに、次第に人生の意味や目的についてあまり真剣に考えなくなってしまう。

ただ、その心には、人生、本当にこのままで、いいんだろうか?というモヤモヤ感がある。

そんな人のために、聖書は単純明解な答えを提示する。

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何のために生きるか?聖書の答え

では、聖書が教える人生の意味と目的を紹介したい。

その答えは、次の聖書の一節に端的に記されている。

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

(使徒の働き17章26~27節)[新改訳3版]

これは異邦人の使徒と呼ばれるパウロという人物が、ある宣教地で語った説教の一部。

はっきりと神がなぜ人間を地上に送られているかが明確に簡潔に述べられている。

それは「神を求めさせるため」。

私たちがその目的に従って、神を求めれば、「神を見出す」とも。

私はこのパウロの説教に旧約聖書の次の言葉を連想する。

そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。(申命記 4章29節)[新改訳3版]

これはモーセが約束の地を目前にイスラエルの民に語った言葉だ。

前記のパウロの言葉と考え合わせると、創造主なる神は、ご自身との出会いを体験させるために私たち人間をこの地上に送られた、ということになる。

そして、心から切に創造主なる神を求める人々は、神の実在を体験をすることができる。

そういうことになるだろう。

なぜ、神は出会われるのか?

なぜ、神はあえて人間を地上に送るという方法をとおして、ご自身と出会う体験をさせようされるのか?

全能の神ならば、そんなまどろっこしい方法でなくとも、もっと簡単に人に自身の実在を示すことができるのでは?

そう考える人もあろう。

こんなふうに考えるのはどうだろう?

神は本当にご自身と出会うことに価値を見出す人にしか、ご自身を啓示することは欲されない。

ある聖書の記事では「神の国」は畑に隠された宝のようだと例えられる。

その価値を見出す人は、たとえ、全財産を投げ打ってでも、その畑を買うだろう、というのだ。

確かに、いつでも、誰でも、どこででも、手に入るような事物に、私たちは価値を見出さない。

逆に、限られた時に、限られた場所で、限られた人にしか、手にできない事物はその希少性のゆえに価値を見出す。

また、その価値を見出すからこそ、本当にそれが欲しい人は、どんなことをしてでも、それを手に入れようとする。

さて、多くの人が神を求めようとしない、また、神を認めようとしないのは、そこに価値を見出さないからだ。

しかし、神に出会うことに価値を見出す人は、真剣に神を求めるだろう。

そのためなら、どんなことでもする、そんな思いを持つことだろう。

そして、神と出会うことに恋い焦がれる。

神はそんな人と出会いたいと思っておられるのではないだろうか?

考えて欲しい。

あなたを馬鹿にしている人、あなたの存在になんら価値を見出さない人とあなたは会いたいと思うだろうか?

あなたが、あなたを愛し、あなたを必要とし、あなたの存在に何よりも価値を見出す人と出会いたいように、神もまた、そのような人に出会いたいと願っておられると考えるのは、むしろ当たり前のことではないだろうか?

神とともに歩む

では、神はあなたと出会って何をなさりたいのだろう。

それは、あなたとともに人生を歩むことである。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書 6章8節)[新改訳3版]

まだ、あなたが創造主なる神に出会っていないならば、今、この瞬間から、神を求める生活をされることをオススメする。

神は心から求める者にご自身を現される方であることを信じて欲しい。

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