キリスト教における「赦し」と「死刑制度」は矛盾するのか?

私はクリスチャンである。

そして、死刑存置論者(しけいぞんちろんしゃ)。

つまり、死刑賛成派である。

そう明言すると驚かれる方もおられる。

「死刑制度」とキリスト教における「赦し」は矛盾するのではないか?

そう思われる方も少なくない。

しかし、私はそれが矛盾するとは全然思わない。

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どんな罪でも赦される

私はどんな罪人であろうと、心から悔い改めるならば、神はその人を赦されると信じている。

すなわち、イエスをキリスト(救い主)として心に迎え入れるなら、神はその人をキリストのゆえに赦し、天国へと迎え入れて下さる。

これはキリスト教における中核的な教えである。

極端な例を上げれば、先ごろ死刑に処せられた麻原彰晃こと松本智津夫であったとしても、もし、彼が本当に心から悔い改めれば赦される。

人間的に考えれば、そんな人が天国に迎え入れられるなんて、それはおかしいんじゃないか?と思われるだろう。

正直、私もそう思う。

しかし、それが、人間の理解をはるかに超えた神の「赦し」に他ならない。

人間の常識では到底受け入れがたい「赦し」である。

「赦し」と「償い」は別

ただ、神の「赦し」を得ることと、自分が犯した罪に対する社会的責任は別問題だ。

たとえば、ある人が100万円を盗んだとする。

その後、その人が自分がしたことを心から悔いて、神に赦しを求めたならば、神は彼を赦されるだろう。

しかし、神からの「赦し」を得たからといって、その人が自分が犯した罪に対する社会的責任を負わなくても良いということにはならない。

100万円を盗んだ人は、その100万円を盗んだ相手に返すべきだし、その上で法に定められた刑に服するべきである。

人の命を取るということは100万円を盗んだどころの問題ではない。

どうあがいても償い切れない損害を相手に与えたことになる。

100万円を奪ったならば、100万円を返還し、処罰を受けることは当たり前のこと。

命には、命をもって償うことと、それに加え、何らかの処罰を加えるべきである。

私は「死刑」に賛成しているだけではない。

「死刑」だけでは甘すぎると思っている。

少なくとも、その人が人を殺したように殺されるべきである。

もし、その人が人を人をめった刺しにして殺したならば、その人もまためった刺しにされて殺されてしかるべきである。

人を極めて自分勝手な理由で故意に殺したならば、自分の命を持って償うのは当然のこと。

そのことが法で定められているのは実に聖書の教えに叶うことである。

聖書には「殺してはならない」とあるのに・・・

ある人は言うかもしれない。

聖書には「人を殺してはならない」と書いているではないか。

たしかにそのとおりである。

しかし、その同じ聖書が「人を殺した者は殺されなければならない」と書いていることを忘れてはならない。

それもまた矛盾しているのではないか?と思われるかもしれない。

だが、これもまた矛盾していない。

「人を(故意に)殺すな」というルールを破った時点で、その人はもはや「人」ではない。

それは人に危害を加える猛獣と同じである。

もし、人を殺した猛獣が町中を歩いていたとするならばどうだろう。

射殺されるのではないだろうか?

殺人者にも人権がある?

私はそうは思わない。

人は人を殺した時点で、人ではなくなる。

よって人権などない。

なぜ、そんな簡単なことが分からないのだろう、と実に不思議である。

死刑を哲学的に考える必要はない

ある識者はこんなふうに言う。

世の中には死刑になりたい人がいる。

そのような人があえて極悪な殺人事件を起こして死刑になれば、それはその人に褒美を与えることになる。

だから、死刑はダメだ。

はあ(゜o゜;???

って感じである。

もし、あえてそのような論理で考えるとしたら、

いくら人を殺しても死刑にならないらしいぜ。

しかも、刑務所に入れば、一生衣食住に困らないらしいぜ。

となったほうが、簡単に人を殺してしまうのではないだろうか?

ともかく、死刑制度があろうが、なかろうが人を殺す人は人を殺す。

死刑制度に関して、哲学的問題として議論する識者もおられるが、いくら哲学的思考を巡らしてもそれは無駄なこと。

もし、私が他人の100万円を盗ったら、100万円を返すべきか否か、一緒に哲学的に考えよう!!と言い出したら、ほとんどの人が

はあ(~_~;)???

バカか、バカなのかお前は・・・

となるだろう。

他人の命を盗ったら、命をもって償うべきか否か、一緒に哲学的に考えよう!!

同じく、

はあ(~_~;????

である。

日本において車は右側を走るべきか、走るべきでないか、哲学的に考える必要がないように、人の命を取った人が死刑になることに関して、哲学的に考える必要はない。

それはルールである。

私自身はクリスチャンとして、身勝手な理由で故意に人を殺した人が、殺されなければならないのは「神の定めし永遠のルール」であると信じている。

それを歪めることのほうが、神のみこころに叶わないと思う。

もちろん、冒頭にも申したとおり、このことと聖書の教える「赦し」は別物。

繰り返しになるが、どんな極悪人でも、その人が真に悔い改めれば、神は赦しを与える。

しかし、神の「赦し」が与えられても、その人は自らが地上で犯した罪に対する処罰を受けるのは当然のこと。

ゆえに、キリスト教の教える「赦し」と「死刑制度」は全く矛盾しない。

まとめ

以上、死刑に関して、クリスチャンとしては過激すぎるかもしれない意見を述べさせていただいた。

すでに申したとおり、私自身は「死刑」に賛成するだけでなく、「死刑」だけでは甘すぎると思っている派である。

人を苦しめて殺した人を、苦しめないで死なせるなんて・・・

そんなこと、許されてはならない。

そんなひどいこと言うなんて、と思われる方も少なからずおられるだろう。

ただ、その人は多くの死刑囚がまったく反省の色が見られないという現実を知っても、本当にそのように思えるだろうか。

もし、自分の犯した凶悪な罪を自慢げに話しているとしたら・・・

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