生かされてる感謝。解き放たれる希望。

何のために生まれたのか?

死んだらどうなるのか?

宗教はそれなりの答えを与えてくれる。

私の場合はキリスト教をとおして、その答えを得ている。

ただ、こんな言い方をしたら、身もふたもないかもしれないが、何のために生きてるのか、死んだらどうなるかなんて、人生終わってみないときっと分からない。

いや、終わってみても分からないかもしれない。

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無になる?輪廻転生?それとも

死んだら「無」になるのか?

生まれ変わるのか(輪廻転生)?

創造主(神)の前に立つのか?

無神論の人は「無」になると信じてるかもしれない。

輪廻転生は無宗教の人でも、なんとなく信じてるかもしれない。

私の場合はキリスト教なので、死んだら創造主の前に立つと信じている。

そして、ある者は永遠の命に、ある者は永遠の滅びに…

もし、それ以外だったら「死んだら無になる」がいいかな?

「生まれ変わり」はシンドイよね。

だから、解脱しろって話しなんだろうけど。

全ては「信心」である

それはそれとして「無」になるにしろ、「生まれ変わる」にしろ、「創造主の前に立つ」にしろ、それらは全て「信仰」であることに変わりはない。

死んだら「無」になるという考えは、科学でしょ?

そう思う人が多いかもしれない。

でも、実際はそうじゃない。

科学至上主義の人がそう信じてるだけのこと。

この世界には科学では説明できないこと、分からないことがたくさんある。

もちろん、その中には科学が進歩すれば説明できるようになることもあるだろう。

しかし、どんなに科学が進歩しても、科学では説明の出来ないことがある。

それに今科学で分かってることも実はわずか。

人間は宇宙のことについても、ほんの少ししか知らない。

宇宙どころか人体についても、ほんの少ししか知らない。

最先端の研究をしてる人だったら、そのことを私たち以上に実感している。

研究する中で、これは「人間をはるかに超えた知性の存在」を想定しなくては考えられない、という結論に至る人も少なくない。

遺伝子研究に関しては「プログラムされてる」なんて表現もよく使用される。

プログラムという言葉自体がその背後にある「知性」を想起させる。

何を信じる?どのように信じる?

私たち人間には、この世界の全ての事象を理解することは出来ない。

生きる意味や目的、死んだらどうなるのかも分からない。

ただ、分かってるのは、今生きているという事実、そして、いつか死ぬという現実。

そして、その中で「何」を「どのように」信じるかが、その人の人生に大きく影響するという真実。

その「何」に関しても「どのように」に関しても漠然としたまま生きることもできる。

その「何」を明確にし、それを基準に「どのように」を具体化することもできる。

私はその「何」を信じるかの部分を「創造主なる神」。

「どのように」信じるかの部分を「全能なる愛の神として」信じるという選択をしたわけだ。

そして、その愛に応える人生を送りたいと願っている。

と、ここまで、いつもどおり思いつくままに書いて来たが、本日は、自分の人生の核となる部分についての再確認になった。

その人生の核となる部分があってこそ、今生きているという事実が、今生かされてるという感謝に、いつか死ぬという現実が、いつか解き放たれるという希望になっている。

そのことを決して忘れることないように、これからも真摯にキリスト教に向き合っていきたいものである。

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